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あなたの身近な人が、人生の最後の瞬間を「孤独に」過ごしていたとしたら——そのとき、家族として何ができるだろう?この問いに真正面からぶつかったのが、あのニコール・キッドマンだった。2024年に母親を亡くした彼女は今、「デス・ドゥーラ(死のドゥーラ)」になるためのトレーニングを始めたと公表し、世界中で「その職業、何?」という会話が急速に広がっている。
「家族だけでは補えない何か」に気づいた瞬間
キッドマンはサンフランシスコ大学でのトークイベントで、母の死について率直に語った。「母が逝こうとしていたとき、彼女は孤独だった。家族にできることには限界があった」。その経験が、彼女を「デス・ドゥーラ」という存在へと向かわせた。
デス・ドゥーラとは、医療行為は行わず、人生の最終段階にある人とその家族に寄り添う非医療的なサポーターのこと。感情的・精神的・実務的なケアを通じて、「尊厳ある死」を支える存在だ。具体的には、最期の日々をそばで過ごしたり、難しい会話の橋渡しをしたり、事前指示書の作成を手伝ったりする。医師でも看護師でもない。でも、だからこそ届く場所がある。
正直言うと、最初にこの概念を聞いたとき、私も「それって何をする人なの?」と戸惑った。でも調べるほどに、「なぜ今まで知らなかったんだろう」という気持ちに変わっていった。キッドマンが「これをできる性格が自分には合っている」と言い切ったのも、なんとなくわかる気がする。
日本にはまだ「死の語り方」が足りない
アメリカでは、医療ドラマ「The Pitt」でデス・ドゥーラが描かれたことも話題になり、医師でありデス・ドゥーラでもあるShoshana Ungerleider氏のような専門家が「死は医療の問題ではなく、人間の問題だ」と声高に訴えている。非営利団体「End Well」を立ち上げた彼女は、「患者たちが最期を過ごすのは、非人間的で医療化されすぎた環境だった」と語る。その言葉は重い。
日本に目を向けると、「看取り士」という近い概念は存在するものの、まだまだ社会に浸透しているとは言い難い。死について話すことへのタブー意識は根強く、「どんな最期を迎えたいか」を家族で話し合う文化も、欧米に比べると薄い。でも、超高齢社会の日本こそ、こういう職業や文化が本当に必要なんじゃないかと私は思う。一人で死ぬ人の数が増え続けている今、「そばにいる専門家」の存在意義は計り知れない。
デス・ドゥーラの認知が広がれば、「どう生きるか」だけでなく「どう終わるか」を考える人も増えるはず。キッドマンが発信したことの意味は、思った以上に大きいと私は感じている。
💬 Naoより:「死」って、正直まだ自分ごととして考えにくいテーマだと思う。でもキッドマンの話を読んで、「孤独な最期をなくしたい」という動機が、これほどまっすぐに伝わってくるとは思わなかった。あなたは、自分や大切な人の「最期の場」について、誰かと話したことがありますか?もしまだなら——この記事が、そのきっかけになればうれしい。

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